つげ 義春 作品買取
つげ義春作品の買取を強化中!
つげ義春のプロフィールや代表作品、買取参考価格や買取事例を紹介しています。
プロフィール紹介
生年月日:1937年(昭和12年)10月30日
出身地:東京都
1937年(昭和12年)10月30日ー 東京都出身
漫画家・随筆家
『ねじ式』を代表としたシュールな作風の作品が高い評価を得て、熱狂的なファンも多い日本を代表する漫画家です。
つげ義春は、1937年に東京市葛飾区立石(現:東京都葛飾区)に生まれました。
(戸籍上は10月30日生まれですが、実際は同年4月の生まれです。)
父は、腕の良い板前で、伊豆大島で最も格式の高い旅館の板長(総料理長)を務めており、4歳ごろまで過ごした伊豆大島時代が、家族仲睦まじく経済的にも安定していた時期で、つげの生涯にとって唯一といっていいほど平和な時期でした。
1941年、5歳の頃に母の故郷の千葉県大原(現:いすみ市)に転居し、父は東京の旅館へ単身出稼ぎに出ており、経済的には山を持てるほど余裕がありましたが、この年、父が病に倒れ入院してしまいました。
結局父は、翌年42歳の若さで亡くなってしまい、貧しい母子家庭となり裕福な生活を失ってしまいます。
当時のつげは、非常に内向的で人見知りもあり、保育園に馴染めず即座に退園し、家で兄弟と過ごすことが多かったそうです。
1944年に小学校に入学しますが、当時は第二次世界大戦下で休校が多く、学校嫌いのつげは空襲で休校になることが嬉しく、毎日空襲があればいいのにと思っていました。
この頃、漫画を描いて遊び始め、小学3年ごろからは手塚治虫に夢中になりました。
1945年、東京大空襲の後、空襲を避け新潟県に疎開しそこで終戦を迎えると、同年10月に兄と共に東京に戻り、葛飾区内で転々と間借り生活を送り始めます。
母は、海産物の行商、仕立物の仕事で生計を立てました。
1946年頃に母が再婚しましたが、義父との折り合いが悪く、乱暴な義父におびえる生活が続きます。
この頃より漫画・書物に興味を持ち始め、手塚治虫の新刊が出ると本屋に走るほど熱中します。
ただ、貧しさのために母に買ってもらうことは出来ず、手持ちのおもちゃを売ってお金を工面するなどして、それでも手に入らないときは万引きしようと本屋の前をうろうろするほどでした。
一方、赤面症、対人恐怖症が進行し、小学6年生の運動会では観客の前で走ることを恐れ、カミソリで自身の足の裏を傷つけるほどでした。
1950年に小学校卒業後は、進学せずに兄の勤め先のメッキ工場に見習い工として就職しますが、環境は劣悪で残業・徹夜・給料遅配が続きました。
後につげは当時の環境を「人間の屑っていうか吹き溜まりみたいな所で、非常に乱暴な世界でした。クロムっていうのを日常的に使ってるから癌とかで悲惨な死に方している人も随分いましたね。」と回想しています。
1951年、14歳の頃には幼い頃育った伊豆大島の経験から海への憧れを強くし、船乗りを夢見るようになります。
その熱は、船員になるために密航を企てるほどでしたが、船員に見つかり補導され失敗に終わります。
密航に失敗した気まずさから家に帰れず、親友がバイトしていた蕎麦屋で働き始めます。
16歳になったつげは蕎麦屋を辞めて、再びメッキ工として働き始め兄と工場を立ち上げることを思い立ちますが、人と接するのが苦手すぎて、人と接することなく一人で空想しながら生きていける職業は何かと考え、漫画家になることを思いつきます。
密航の件でもそうでしたが、好きなものに対しての行動力は素晴らしく、すぐにトキワ荘の手塚治虫を訪ね、原稿料の額や仕事の取り方などの漫画家事情を聞き出し、メッキ工場に勤めながら漫画を描き、『犯人は誰だ‼』『きそうてんがい』で17歳に漫画家デビューします。
その後、一コマ、四コマなどの作品が少年誌に採用され始め、母の反対を押し切りメッキ工を辞めます。
自身の作品を持って多くの出版社を回り、10件目の若木書房で採用され、1955年5月に『白面夜叉』で正式にプロデビューしました。
この作品で漫画家として認められ、貸本漫画家となり、後にガロで同時連載を持つようになる永島慎二などと親交を深めます。
漫画家の集まりにも参加するようになりますが人見知りが激しく、あまり交流を持つことはありませんでしたが、トキワ荘のメンバーでは赤塚不二夫のみとは仲良しで、お互いの家に泊まり漫画論を交わしたりしました。
貸本時代のつげは、手塚治虫の影響を強く受けた推理ものなどをよく描いていて、ストーリーの完成度は高かったですが、暗いタッチの作品は貸本漫画の主要読者の小学生や中学生には不評で、出版社からはもっと明るい作風を要求されました。
少しでも明るい作風になろうと、赤線(風俗店)に行くなどしましたがそこで失恋を経験すると、その後は漫画をさぼるようになり困窮し、売血を経験します。
21から22歳の頃にまた漫画を描き始めますが、タイトルを先に決められストーリーが浮かばないなどで締切日に遅れそうになり、編集者から補償金を取られる場合があると脅され、そのショックから雑誌への連載を全て辞めてしまいます。
貸本漫画で生計を立てていましたが生活は苦しく、下宿の家主の経営する装飾店に勤めて、襖の張替えなどの仕事を手伝います。
装飾店が倒産し、再び漫画を描くようになりますが、貸本漫画業界の衰退もあり、従来の推理ものなどに加え、SFや青春ものなど様々なジャンルに手を染め始め、当時の人気漫画家の絵柄を真似ることを要求もされました。
しかし周りの貸本漫画家仲間の支えもあり漫画に向き合い続け、28歳で当時の貸本漫画界の王様といわれる白土三平と水木しげると出会い、この出会いがつげにとって最大の転機となります。
二人はすでに『ガロ』を創刊しており、白土はもともとつげの漫画のファンであり、『ガロ』にスカウトしました。
つげの暗いテイストの漫画は、今まで描いていた雑誌の読者と違い青年層が多い『ガロ』では、一部のファンからカルト的な人気を得ました。
娯楽作品意識から脱却したつげは、『李さん一家』『紅い花』などの作家性の強い作品を発表し、また「旅もの」といわれる作品群でも評価されます。
そして、1968年に29歳にして代表作にして大傑作と評される『ねじ式』を発表します。
つげ自身、「ラーメン屋の屋根で見た夢」という通り、この作品は夢みたいな世界の話で、これまでのつげ作品のテイストとも異なり、夢を基本として描かれた初めてのマンガ作品といわれます。
『ねじ式』は、漫画が初めて表現の領域を超越した作品と絶賛され社会現象となり、後続の作家にも多大な影響を与えるようになり、また、多くの評論家や詩人、文化人などがそれぞれの立場から批評を試みました。
しかし、この『ねじ式』のせいで、芸術漫画家という烙印を押され、発表の場が限られるようになってしまい、だんだん描きたいものが描けないというジレンマに陥るようになり、43歳からはマンガを辞めて古物商などで生計を立てるようになります。
その後は、体調不良もあり、また1999年に母と妻をほぼ同時に亡くすなどの悲劇が続き、そのショックからいよいよ表舞台からは遠ざかりました。
一方で、つげの作品の評価は高まり、実写化や海外翻訳などもされ、ほぼ毎年何らかのメディアでつげ義春特集が組まれますが、本人は全く顔を出しません。
しかし、2020年には漫画界のカンヌと呼ばれる「アングレーム国際漫画祭」で特別栄誉賞を受賞し、この授賞式では笑顔を見せ、ファンを喜ばせています。
代表作に『ねじ式』『紅い花』『チーコ』など
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つげ義春 関連作品買取価格
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つげ義春 関連作品買取事例
少しでも高く売るには?
つげ義春の本を少しでも高く売るためのポイントご紹介!
ちょっとしたことで買取金額査定アップにつながります。
- 売りたい本の高く売れるタイミングを見極める!
- 本の買取のご依頼は、年末の大掃除や、3月・4月など新生活に向けた引っ越しの時期が最も多くなります。そのため、この時期は市場に多くの古本が出回り、同じ本でも買取価格が下がってしまうこともあります。
できれば、多くの本が売られる時期を外して売った方がつげ義春の本が高く売れる可能性も上がると思います。 - 表紙カバーや函も一緒に!
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